未来小説「ニューライフ」エントモファギー

 約束の喫茶店で彼女は先に待っていた。最初にPCR検査の結果を見せ合って挨拶をして席についた。
 紛れもなく僕のタイプだ。マスクをしているので当然顔全体は見えないが、喫茶店の窓から入る春の光に照らされた彼女の目と全体から受けるの感じは自分のタイプに違いない。まあフラれてもこんな女性なら話ができるだけでもいい、英知はそう思った。
 飲み物を注文してお互いにマスクの間からストローで一口飲んだとき彼女が申し訳なさそうに切り出した。
「あのう、最初に聞いておいた方がいいかと思って、小比戸さんは昆虫食べるんですか?」
「いえ、実はあんまり好きでないんです。いえ、ほとんど食べません。いえ、嫌いなんです。」
「よかったあ、私も実は好きじゃないんです、もし小比戸さんが昆虫好きならお時間もったいないし別の女性の方がいいかと思ってたんです。ウソ書いてごめんなさい。」
と屈託なく笑った。
 結婚相談所の自己紹介の欄に①昆虫を食べる、②昆虫を食べることができる、③昆虫は食べない、の3つから選ぶこととなっている。
 英知は昆虫は大嫌いだが食べないと書くと出会いのチャンスが少なくなるかと思い②の昆虫を食べることができる、を選んでおいた。彼女も同じ理由なのだろう彼女の自己紹介にも②の昆虫を食べることができるに〇がついていた。
 2020年環境少女グレタトゥンベリはノーベル平和賞を受賞した。ノーベル賞の権威を落とすことになると温暖化懐疑論派から強い反対意見があったが受賞をした。その後彼女はIPCC気候変動に関する政府間パネル)の理事になり昨年から会長となっている。
 グレタ会長の指導するIPCC二酸化炭素削減のために極端な再生可能エネルギーへ移行を世界各国に押し付けてきた。
 またグレタ会長とは別のより過激な圧力団体がIPPC内で力を得て今はIPCCの活動は再生可能エネルギーの押し付けだけでなく、食生活にも圧力をかけてきた。CO2を大量に発生させる牛肉などの家畜食用の禁止、ベジタリアンの推奨、そしてこのところはエントモファギー、昆虫食を推薦、いや半ば強制してきている。
 IPCC加盟国は食料消費の5%を今後10年間で達成しなくてはならない。達成できないと達成できた国に昆虫食税を払わなくてはならない。
 10年前豚コレラが広がり豚生産に壊滅的な打撃を受け、米国との貿易戦争で大豆の輸入を止められた中国は13億人の食料を得るために積極的に昆虫食を推進した。
 ちょうどアフリカからインド経由で広がった大量のバッタが中国の農地を荒らしまわり第二の文化大革命の悲劇かと思われたが、バッタを食料にすることで中国はなんとか食糧危機を乗り切った。このバッタは日本のイナゴと違って本来まずくて食べられないが、中国は加工方法を発明し、今は普通に中華料理の豚肉や豆腐の代わりになり、さらにいろんな料理に使われている。
 アメリカ、イギリス、ロシア、ブラジルなどは早々にIPCCを脱退したが、日本は国内に環境産業が育っており経団連が政府に圧力をかけて脱退しなかった。
 テレビをつければ食べ歩きの半分は昆虫食だ。お笑い芸能人が街中を歩いてその場で撮影許可をもらって店の紹介をするのは昔と同じだ。違うのは出てくる料理の半分が昆虫食になっていることだ。今や地球温暖化は国民の教義のようになっていてスポンサーとしても昆虫食を入れないとすぐにクレームが来るらしい。
 昨年のIPCCの国連会議では夕食は昆虫ディナーだったらしい。10年以上前に小泉環境大臣が国連会議期間中ニューヨークのステーキ屋に行ったと報じられ非難されたが、今はそんなことはできない雰囲気になっている。
 実は品種改良、地球温暖化二酸化炭素増加、によって世界の食料生産は1945年以後途切れなく毎年増加していて自給率も絶えず100%を超えている。余ったサトウキビやトウモロコシをバイオ燃料にしている一方で人間は昆虫を食べないといけないというなんとも理解不能な世界になっている。
 今日本ではなかなか公然と昆虫は嫌いだ、食べたくないとは言えない環境にある。一番言いづらいことを最初にすっきりと言う女性だ。気に入った。
 あっという間に1時間が過ぎてしまった。何を話したかは忘れてしまった。ともかく楽しかった。
 結婚相談所のルールで最初の「面談」は60分と決められていて次のステップに行くかどうかはこの場で言ってはいけないことになっている。
そろそろ時間だ。
彼女が最後に
「小比戸さん、ルールは分かっているんだけどまた会ってくれます?」
「はい、僕もそのつもりでした。もちろんです。」
 この喫茶店飲み物に小さなお菓子が付いているヨーロッパスタイルで10年前まではベルギーの高級チョコが1個ついていた。最近はタイ産タガメの砂糖漬けがついている。10年前までタイの東北部(イサーン)地区では米の収穫が少なくてか昆虫のタガメを食べる習慣があった。今このタガメが高級食材とされていてなかなか手に入らない。タイではタガメの養殖でタガメ成金がいるらしい。今日本では砂糖漬けにしてチョコレートの代わりに食べるのがはやりだ。
 お会計だ。結婚相談所のルールで男性が喫茶店のお金は支払うことになっている。小皿に置かれた黒い茶色のタガメをみて二人は
「食べないですよね」と言って笑った。

2030年10月16日(水曜日)午後